失業中の“優秀な人材”が掻くいびき

                                                                                                  姫田小夏

国慶節の休暇で訪れた東京から戻ったので、手土産を持って博士課程に留学する友人の部屋を訪れた。ドアをノックし、中に入るとギョッとした。ベッドの端から女性の脚がはみ出ているではないか。

 

え?もしかしてマズかった?と狼狽せずにはいられなかった。むっくりと起き上がった彼女はすぐに中国人だとわかった。また同時に、この留学生とは「タダならぬ関係ではないのではない(ご注意!二重否定)」ことがわかった。お取り込み中なら部屋に通さないはずだからだ。

 

早速、この妻子ある留学生の男性を外に連れ出し事情を聞いた。聞けば、彼女はこの大学の修士課程の卒業生で、かつてから「好朋友」だったという。卒業後、彼女は上海の会社に就職したが間もなく辞めた。そして行く当てもなくなり、彼のいる留学生宿舎に転がり込んだというわけである。

 

しかし彼曰く、「いくら好朋友とはいえ、妙齢の女性とひとつ屋根の下で暮らすのはとても気が引ける」。彼はほぼ毎日友人宅に泊まり歩いているような現状だった。「この宿舎から引っ越そうと思う」と言うので、「それは本末転倒でしょう!」と一喝した。

 

今の状態はまさに彼女による部屋の乗っ取りである。この図々しさにはさすがに私も呆れたが、まさしくこの図々しさこそ、天性のものである。宿舎のみならず、企業もまたこうした「居座りパターン」で見事に浸食されていくケースも少なくないのではないだろうか。

 

さて、修士課程、博士課程にせよ、彼らは日々モーレツな勉強で身を粉にしている。とにかくどっさりと宿題が出て、他の先生の授業中に別の先生の宿題(特に数学!!)をこなすという、これまた見事な本末転倒ぶりである。特にマルクス経済の授業などは、ほぼ全員が、というような状態である。大学全体が「数学至上主義」の空気に包まれていることは疑いの余地もない。

 

ちなみにこの実態を日本で活躍する中国人エコノミストに訴えてみた。するとこんな回答が返ってきた。

 

「理論経済学にとり21世紀における最大の悲劇は、もともと哲学とリンクしていた経済が高等数学とリンクしてしまったことだ。現在の経済学は天気予報よりも不確実性が多く、数学のロジックですべてを数値化できない。にもかかわらず、数学者は経済学に進出し、あたかも数学で経済現象を解けるように思っている。しかし、経済政策の現場で一番役に立っているのはやはり哲学だ」――

 

話を戻そう。学問の現場では、このように日々常識の範囲を超えた難問が大量に出されるため、学生に与えられる自由時間はない。結果、学生の生活は世の中の動きからは隔絶され、接点は「机上」のものとでしかなくなる。

 

別の博士課程の学生は「ここ数ヶ月、バスにも地下鉄にも乗ったことがない」と話す。宿舎と学舎が一体化した閉ざされた世界で、4年も6年も過ごす彼らの目標は黙々と宿題をこなし、期末試験や資格試験に合格することなのである。

 

日本の学生のように、少しはフラフラと街に出て、或いはアルバイトで世間を知るような時間があってもいいのではないかと思う。現場をよく観察してみればそこからヒントが生まれるのでは?と思うのだが、彼らは「現場」に重きをおいていない。「理論」は崇拝しても「現場のディテール」の観察眼は極度に低いし、まったくそこに価値を置いていないかのようだ。

 

隔離された世界から、いきなりこれまた不条理な世の中に出て、脱落していく者も少なくない。立派な学歴と彼らが身を粉にして学習してきた理論は、残念ながら世の中にはあまり必要とされないのかもしれないし、また数式で解決できるほど単純な世の中でもない。

 また、これまでの学習で見せたあの熱心さはどこへ行ったか、せっかく見つけた職場でも、理想と現実のギャップに耐えられず、急にやる気をなくし、手を抜き始めてしまう。昨今、「失業」は中国すべての若者が共通して恐れるキーワードだが、問題の根底には日本とはまた異なるものがある気がする。

 

先日、久しぶりに中国企業で働く友人に会った。彼は同社の管理職で幹部候補生を探している。だが、現実は容易ではない。

 

「採用には骨が折れる。やっと決まったと思ったら翌日来ない。そんな大変な仕事なら家にいた方がいい、と親が入れ知恵するのだ」

 

失業中の彼女は留学生宿舎に転がり込んで、日がな一日グーグーといびきをかいている。あれほどの勉学を重ねてきた貴重な人材に無常を感じないではいられない。