上海人が迎える老い

                                 姫田小夏

時間は誰に対しても平等に過ぎていくとは思うのだが、さすがに15年もこの国と関係を持っていると、中国の友人もまた15年分の変化を遂げていることに驚かされる。(自分もまた相手を驚かせているが)

 

Dさんは63歳にして痴呆寸前の状態にあることが、先日の訪問でわかった。

 

目が遠い。反応もほとんどない。

 

一日ボーッと過ごす。大概ベッドで寝ているという。「エレベーターなしの6階建て」というアパートの構造がわざわいしているのか、いまではまったく外に出ない。

 

家族や親戚は「運動しなよ」と口酸っぱく言うのだが、まったく聞く耳を持たない。

 

もともとは鬱病から始まった。医療機関が処方したのは、かなり強い薬で常に「眠い状態」にさせるもの。ほっておけばいくらでも眠っている。植物人間も同然だ。

 

家族にはこの「西方薬」(欧米メーカーの薬)に強い抵抗感と不信感がある。

 

けれどもこの薬を辞めれば、癇癪と鬱状態がひどくなる。あれを喰わせろ、これはどうした、といろいろと子どものように執拗に追求してくるそうだ。

 

つい1年前までは、すべてこの夫が家事を切り盛りしていた。マイツァイ(買い物)、ツオツァイ(炊事)は彼の得意、妻は座っているだけでよかった。勤労な夫だった。

 

けれども今ではすべて妻の仕事になってしまった。

 

「もし、私が不在にすれば確実に彼は餓えて死ぬ。夫は自分で何もやらなくなってしまった」

 

テレビにも新聞にも関心を示さない。好きな番組も好きな音楽もない。もともと彼に趣味がなかったのも問題だ。

 

彼のような世代は、趣味すらなく、それにかける資金もない。「退休工人(定年退職した国有企業の工場労働者)」は時代の犠牲者でもある。

 

早い段階で、中医の医者は「あんたは間もなく痴呆症になる」と予言したらしい。

それを聞いた本人も、家族もその晩は家に帰るや大泣きした。痴呆になんか、誰だってなりたくない。だが、予言通り、それがもう間もなく到来しようとしている。

 

妻は吐き捨てるようにこの夫にぶつけている。

 

「まだ60代のくせに、80歳の老人のようだ」、「これじゃ死を待つばかりじゃないか。今まではあんたに同情してきたけど、今では恨みしかない」と。

 

自分を回復させようという意志もなく、何の努力もしない夫に苛立ち、鬱積した不満を再び夫にぶつける。

 

「自分の足が動かなくなったらもうそれまで」――。中国人の、老いに対する共通した観念だ。と私も何度かこれを原稿で書いてきたが、まったくそのとおりだと思う。そしてもうひとつ、老いにも教育が必要であることを痛切に感じた。

 

子どもが大人になるために教育が必要なように、「いい大人」でも老いるためには教育と準備が必要だ。少なくとも「自分で努力して健康を保つ」という意識がない限り、もはや国家も家族も老人を支えようがない。

 

最後に澁澤榮一氏の「論語と算盤」から引用しみたい。

 

 

<前略>ある書物の養生法に、もし老衰して生命が存在しておっても、ただ喰うて、寝て、その日を送るだけの人であったならば、それは生命の存在ではなくして、肉塊の存在である。故に人は老衰して、身体は十分に利かぬでも、心を以て世に立つ者であったら、即ちそれは生命の存在であるという言葉があった。人間は生命の存在たり得たい。肉塊の存在たり得たくないと思う。これは私共頽齢のものは、始終それを心がけねばならぬ。まだあの人は生きておるかしらんといわれるのは、けだし肉塊の存在である。<後略>