言語学者・奈良毅先生のもうひとつの顔

                               姫田 小夏

1月20日に肺腺癌のためご逝去された奈良毅先生だが、そのお別れ会が3月29日、学士会館にて行われた。「死後50日は何もやらないでほしい」、というご遺言を残され、それが明けた今、バングラデシュ大使館、インド大使館、デリー大学などでお別れの場が設けられている。本日、この学士会館で行われた追悼会もこれに続くものである。

お別れ会は、奥田由香さんによるタゴールソングに始まり、故人となった奈良先生の挨拶文を臼田雅之先生が代読し、4人の代表者がお別れの言葉を述べ、最後に喪主である奈良安紀子夫人がご挨拶に立たれた。続く第二部はスピーチあり歌あり、食事あり、懇談ありの会となった。

 

さて、この一連のスピーチを通して改めて知ったのが、奈良先生は言語学者である以上に、宗教者だったということだ。ご母堂のかね様が教祖様であられることは以前から伺って知っていたが、これとの関係もあるのだろうか。ご母堂は奈良先生が4歳のときに、こうした能力を授かり、人々の体と心の病の治療当たったその延長に、宗教法人を設立されたとのことだ。ご母堂は3年間で2万人の患者と向き合ったと言う。その後何らかの理由で地元の薬師八幡から活動停止のお達しがあったようだが、「重病患者のみを看る」ということでその活動はご本人がこの世を去る昭和26年7月まで続けられたそうだ。

 

その後、奈良先生は秋田大学を卒業し、昭和30年に東京大学大学院に入られ、学位取得後にカルカッタ大学に向かわれた。当時、ラマクリシュナミッションの学生寮から大学へ通学されたと言う。

 

当時、奈良先生は僧侶になること、インドに帰化することを真剣に考えたらしい。それほどインドの宗教に惹かれ、インド人になることを所望されていたと言う。その後は日本人として日印の文化交流に尽くすことが今生の使命であると悟られた。

 

余談になるが、私自身も2012年に奈良先生からラマクリシュナの「コタムリト(不滅の言葉)」を頂戴した。そこには、長年、日本的、あるいは中国的価値観で物を見ることに慣れてしまった自分にとって、まったく異なる世界が開けており、同時に、学生時代にインド哲学の真似事をしていた自分にとっては、どこか懐かしい世界が存在していた。

 

さて、奈良先生は1964年に帰国され、アジアアフリカ言語文化研究所に所属された。その後、日本を代表する言語学者になられたのである。晩年ではその活動に国際ベンガル語学会の開催がある。2010年に会長に選出された奈良先生は、2015年の大会の開催を東京外国語大学で行うことを悲願とされていた。

 

こうした言語学者としての活動は実に枚挙にいとまがない。その一方で注目したいのが奈良先生の持つもうひとつの顔だ。ご本人はご自身を宗教者として認識されていたのである。ご母堂の遺言に「同じ道を歩んではいけない」とあったにもかかわらず、だ。

 

宗教といえばなんとなく胡散臭いと思ってしまうのが、我々日本人の悲しいところだ。宗教は人を幸せにすることもできるが、盲目にもさせ不幸にもしてしまう。また、多くの宗教が現世利益的でもあり、金や利権と表裏一体でもある。現代の日本社会においては、地下鉄サリン事件とともにますます「宗教は危険である」ことの刻印が強く押されるようになった。また、信じるものがない、寄る辺をもたない日本人の心の漂流もまた「日本人の無宗教」とともに長らく議論されてきた。ましてや私が長く生活する中国では、非科学的なるものとして生活の中心からは排除されてしまっている。

 

今改めて「宗教とは何か」を問われる時代において、奈良先生はそれを自然体で実践されてきた。実践する上での唯一の行為は「祈り」であり、祈ることで平和活動を押し広げてこられた。

 

奈良先生は毎日祈られていたようだ。月曜日は仏教、火曜日はソロアスター教、水曜日はヒンズー教、木曜日は神道、金曜日はイスラム教、土曜日はユダヤ教、そして日曜日はキリスト教と、それぞれの宗教を尊重しながら、そのやり方でお祈りされた。本日のお別れ会でも、「どのような宗教スタイルで祈られても構いません」というような札が立てかけられていた。

 

自らを宗教者とした奈良先生の、そのお別れ会は大変すがすがしいものだった。物悲しくも、湿っぽくもなかった。意味の分からない読経もなければ、形式的な儀式もなかった。喪主の安紀子夫人も笑顔で我々を迎えてくれた。読経の代わりにタゴールソングが、お線香の代わりに歌が、すすり泣きや沈黙の代わりに、奈良先生を共通の師とする友人らの間で笑顔の交流が行われた。

 

奈良先生の宗教者としての在り方は、少なくとも何かを他人に強要するものではなかった。むしろ我々が知らず知らずのうちに、奈良先生から「与えられた」ものだったのかもしれない。言語学者としての専門性もさることながら、政治も語れば経済も語るという知見の広さ、さらには何事をも受け入れる懐の深さは、まさしく導師にふさわしい存在である。

 

もっとお話をしたかった、またメディアとして奈良先生の言葉をもっと伝えたかった、その一点がそれだけが私の後悔である。だが、気を取り直して思い返せば、私たちアジア・ビズ・フォーラムは昨年、奈良先生のメッセージを見開き2頁で取り上げることができた。

 

「バングラデシュは何もないけど人はいる」というメッセージが印象的だった。確かに人材の宝庫であることは間違いない(詳細は今週のJBpressをご覧いただきたい)。肺病の苦しい中をロングランでインタビューに応じてくれた奈良先生に改めて合掌をささげたい。そして奈良先生が生前撒かれた種の、何かひとつでも受けついていくことができればと思っている。

 

奈良毅先生プロフィール

1932年秋田市生まれ。東京外国語大学名誉教授、バングラ・アカデミー終身会員、国際ベンガル学会会長、日印協会顧問、日本バングラデシュ協会顧問、オイスカ評議員。2012年瑞宝中綬受章。